志葉楽(シバラク)

アクセスカウンタ

zoom RSS − タイトルなし −

<<   作成日時 : 2015/03/30 17:22   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0


【満州開拓団避難民の悲劇】(1945年〜1946年に、生活手段・生活環境を失った日本人民間人が25万人以上死亡した。)

多数の開拓団の
老人、婦女子、小学生、幼乳児が、ソ連軍戦車の銃撃と
中国人の銃、鍬、こん棒などによる襲撃で殺害された。


逃げ場を失った日本人たちは集団自殺した。

逃避行から生き残って奉天(瀋陽)の窓や床板をはがされた
荒れ果てた学校、寺院、病院等の収容施設にたどりついた者も、
着の身、着のまま、中には麻袋だけで身を包み、所持金もなく、
飢え(餓死)、栄養失調(衰弱死)、伝染病(病死)、極寒(凍死)、
絶望(自殺)等でほとんどが死亡した。

生き残った小学生・乳幼児は遺棄孤児(残留孤児)として
二重三重の苦難の人生に耐えねばならなかった。

参考:若槻泰雄著 『戦後引揚げの記録 新版』時事通信社 1995年10月発行

第123頁
満州に侵入したソ連軍は、8月19日には、早くも外部との一切の通信交通を
遮断した。そして世界の目から隔絶された中で、ソ連の軍隊はほとんど例外なく、被占領国民たる日本人の上に強奪・暴行・婦女暴行をほしいままにしたのである。

程度には若干の差はあったし、侵入直後が最も激しかった地区や、逆に日を追って悪化したというような都市もあり、数日にして一応平静に帰した所もあれば、占領の全期間、数ヵ月にわたった例もある。

兵器をもったソ連兵は、群れをなして日本人の各家庭や会社の事務所に押し入った。
そして手当たり次第、金めのもの時計、貴重品、衣類などを強奪する。

そして撫順など極めて少数の例外はあるが、婦人とみれば、老若を問わず婦女暴行を働いた。

抵抗するもの、あるいは、これを阻止しようとするものは容赦なく射殺する。
窓を閉じ、扉に鍵をしめ、更には入口を釘で打ちつけていても無駄である。
軍隊が本気で民家に侵入しようとするならば、そんな程度のものを打ちこわすのはいとも簡単であろう。家屋は無残にたたきこわされるだけだ。

しかもこの行動は「夜陰に乗じて」というわけではない。ソ連兵の強奪は「盗む」とか、「奪う」というような段階ではなく、トラックを横付けにし、「それはまるで運送屋のように、だれはばかることなく、せっせと運んだ」

第126頁
「・・・十二、三才の少女から二十ぐらいの娘が十名程タンカに乗せられ運ばれていた。その全員が裸で、まだ恥毛もそろわない幼い子供の恥部は紫に腫れ上がって、その原型はなかった。大腿部は血がいっぱいついている。顔をゆがめつつ声を出しているようだが聞き取れない。次の女性は恥部は前者と同じだが、下腹部を刺されて腸がはみだしていた。次の少女は乳房を切られ、片目を開けたままであったから死んでいるのかもしれない。次もその次もほとんど同じ姿である。『ああ、女とはこんな姿でいじめられるのか』・・・一週間私はこの病院に居て毎日毎日この光景を見て、その無残、残酷さに敗戦の惨めさを知った。銃でうたれて死ぬのは苦痛が一瞬であるが、自分の体重の三倍以上もある毛むくじゃらの男数名になぶられた少女等は、どんな苦しみであったであろうか。医師の話では『十名に二、三名は舌を噛んで死んでいるんです』・・・」

【ソ連と北朝鮮が日本人の帰国を禁止・妨害−
  北朝鮮の日本徹底敵視は金日成から始まったもの】

 『検証・満州1945年夏 −満蒙開拓団の終焉』第53頁〜第71頁は、
団員、420人あまりが【集団自決】した哈達河(ハタホ)開拓団中央
グループの悲惨な最期について、納富善蔵さんの談話を載せている。
(麻山事件)

 哈達河(ハタホ)開拓団は鶏西(チーシー)市から東へ約8キロ、当時の
ソ連との国境のすぐ近くにあった開拓団である。 哈達河(ハタホ)開拓団中央グループは逃避行の途中に、ソ連軍の戦車隊と武装した中国人暴徒集団に前後をはさまれて身動きできなくなり、ついに全員集団自決の道をたどったのである。中央グループが集団自決する前に、先頭グループ約300人も、ソ連軍と武装した中国人暴徒集団に襲われて、殺害されるものや、負傷者が続出して集団自決していた。

 『奉天(現在の瀋陽)における開拓団・婦女子の悲惨な状況』

米国の戦史研究家、ウィリアム・ニンモ氏は著書『検証・シベリア抑留』
(加藤隆訳 時事通信社 91年3月発行)の第46頁で次のように述べている。

「1945年8月以降、満州の日本人たちは大多数が苛酷な状況下にあった。
まず厳しい寒さ、それにインフレ、交通の悪さ、病気などで生き残ることを
困難にし、1945年〜46年冬の死亡率を高めた。」

日本政府は、その冬だけで11万人の日本人が死亡したと推定していた。
翌年の冬はもっと増えるだろうと予想していた。

元満州の住民はこう語った。
「それは想像を絶するほどのひどさだった。最悪なのは、たくさんの人が飢えと酷寒のため死んだことだ。おびただしい数の避難民がソ連との国境に近い満州北部から流れ込んできて、奉天(=瀋陽)の学校や他の施設に収容された。

冬の間中、毎日大勢の人が死んでいくのを見た。市内にはそれを埋める場所もなかった。近くの、人が住んでいないあたりに、縦横6メートル、深さ4メートルの大きな穴が掘られた。死体は低温のためすでに硬く凍っていた。それを穴の中に投げ入れ、上から薄く土をかぶせた。」

 『葛根廟事件』満州北西部の興安(=烏蘭浩特(ウランホト)市)にて

武器を持たない無防備の約2,000人の日本人母子老人家庭避難民が奉天(瀋陽)への避難途中、突然、警告なしに、ソ連軍戦車隊に襲撃され機銃掃射で惨殺された。
重傷を負った避難民は自殺した。生存者はわずか150人であった。
生き残った子供は遺棄孤児(=残留孤児)となった。

「・・・止まった戦車の天蓋からソ連兵が数人出てきた。機関銃の三角の銃火光が続けざまに見えた。死にきれずにいる日本人避難民に対して、なおも仮借のないトドメの銃撃なのであろう。非戦闘員の日本人避難民に銃撃を加え、
その上キャタピラで死体を圧し潰し、悪魔のように戦車群は去っていった。」
(当時、斥候として現場に居合わせ、惨状を目にした管忠行氏の証言)

 『敦化事件』
1945年8月27日に
満洲国吉林省敦化(現吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)でソ連軍によって連日に渡り集団強姦され続けていた日満パルプ製造(王子製紙子会社)敦化工場の女性社員や家族が集団自決した事件。

ーー異国で「三日間勝手にせよ」として兵士の闘志を刺激するなど、なおさら政治の堕落だ。

ソ連軍のこのようた釈明はまさに、大ロシア主義の態度を反映したものだと言える。その根本的な原因はスターリンの「共産主義総本山」の意識にあり、そのため他国の人民を尊重する教育を怠ったのだろう。

ソ連軍の一個戦車軍団が1944年末にユーゴスラビアの片隅を通過した。その短い道程で、千件以上の婦女暴行と強奪事件を起こした。これがユーゴスラビア国民の強い反発を招き、のちにユーゴとソ連の関係決裂になる原因の一つになった。

ソ連軍がドイツの東部を占領した後も、強奪と暴行を繰り返し、ドイツ人の民族感情を傷つけた。本来は親ソ的な東ドイツ政権なのに、統治の基盤が不安定だったのは、それが一因でもあった。

満州での行為は、ソ連軍の一貫した行為の東方での継続だ。

月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
− タイトルなし − 志葉楽(シバラク)/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる